深淵から見えた

白衣の堕天使。精神科→外科。

僕が死のうと思ったのは

こうして眠れない夜は看護学校の
吹き曝しの廊下に出て
柵にもたれて
地面を見下ろしていた日々を思い出す。

地面には茶色い土、小石、
それから視界の隅に
アオギリの木があって
その木漏れ日が揺れていた。
今でもあの景色は鮮明に思い出せる。

「ここから落ちたら
死んでしまうだろうか」
いや、
「ここから落ちてしまえたら
死ねるだろうか」
そんな事しか考えられなかった。



幼い頃の夢は看護師になる事だった。
物心つく前から何故か
〝自分は役に立たない人間だ〟
という事を自覚していた
だから役に立つ人間になりたくて
看護師になりたいと思うようになった。

「看護師になりたい」
そう言えば周りの大人を
喜ばせることが出来た。

いつしか私の頭の中で
思い描く将来の姿から
看護師以外の選択肢が消えていた。

今思えば、
看護師にならなければ
周りの大人達を失望させてしまう
と思っていたのかも知れない。



父はサラリーマン、
母は専業主婦、
そして私と弟が2人という
ごく一般的な家庭に私は生まれた。

ただ、夫婦喧嘩が絶えない家庭で
事あるごとに父は酒を飲んでは
母や子供達に暴力を振るい、
人格を否定する言葉を吐いた。

特には母への暴力は酷いもので
しばしば流血沙汰となる事もあった。

そんな母は精神的に追い詰められ、
毎日のように
ベランダから飛び降りようとしたり
包丁で手首を切ったり自殺しようとした。
それを止めるのが長女である私の務めだった。

そんなある日、父と母が
いつものように夫婦喧嘩をしていて、
母が耐えきれず家を出て行こうとした。

私は母を追いかけて
「出ていっても私のお母さんだよね?
ちゃんと会ってくれるよね?」
と泣きながら言った。

すると母は冷たく
「どうして捨てた子なんかに
会わなくちゃいけないの?」
と言った。

そして私は
「そんなの無責任だよ!
産んだならちゃんと育ててよ!」
と言い放った。

母は歩みを止めて、
気が変わったのか家に帰って来てくれた。

私はこの一言が後に
自分と母を苦しめる事になるとは知る由もなく
ただ母が帰って来てくれた事を喜んだ。



私の交友関係は今も昔も変わらず
破滅的な物だった。

幼稚園から社会人になるまで
ずっといじめのターゲットであり続けた。

当然だ。

私は所謂、多動児で問題児だった。

いつも授業中に教室を抜け出しては
グラウンドや動物小屋を探検した。

同級生に詰られては
いつも取っ組み合いの喧嘩をした。

だからいつも母は学校の先生や
他の子供の父兄から
苦情を受けては謝っていた。



そんな私に転機が訪れた。

父の仕事の都合で小学5年生の時に
九州から今住んでいる県の学校に転校した。

私はそこでも変わり者で、
他所者だった事も相まって
ひどくいじめを受けた。

掃除当番はいつも1人、
完全に同級生からは無視され、
バイ菌扱いされ、
私の給食が用意されることはなかった。

それと合わせ、
父の母への配偶者間暴力も
この頃より更に激化した。

父から暴力を受ける度、
母は私にこう言った。

「お前があの時無責任だなんて言うから
私はお前の父親から叩かれる。
全部お前のせいだ。
お前なんか居なきゃいい。
産むんじゃなかった。」

次第に母は私を拒絶し、
無視するようになった。

私の食事は用意されず、
衣服も洗濯される事はなかった。

傍目にはまだ幼い末の弟を
愛しそうに抱く母の姿が写った。

私は母にネグレクトされた。

学校では私の筆箱とその中身が
トイレの便器に浮かんでいた。

私は頭の上からホースで水をかけられ
ずぶ濡れで上履きを隠されたから
裸足でただ呆然とそれを見ていた。

私はこの時、
完全に孤立無援だった。

気づいたらカッターで手首を切っていた。



中学校は小学校の頃の延長で、
小学生の時程ではないが
いじめのターゲットだった。

時々いじめられっ子に
「大丈夫?」
と声をかけるだけで
何もアクションを起こさない
偽善的な女の子にイラついただけで、
後は部活で部員全員から無視されていたけど
高校の推薦が貰えなくなるから
辞められなかった位だ。

中学に上がる頃には
相変わらず父の母へのDVは続き、
母との間に溝はあったが
ネグレクトはされていなかった。

時々リストカットをしては
憂さ晴らしをしていた。



高校は衛生看護科のある高校へ入った。

高校生の私はピエロを演じた。

もういじめられるのはたくさんだ
と思ったからだ。

幸い、高校3年間
同級生からの
いじめのターゲットになることは
避けられた。

しかし、変わり者の私は今度は
先生達の〝特別指導〟の対象となった。

多動児ではなくなっていたが、
この頃には注意力の散漫さが目立ち、
うっかりレポートを提出し忘れたり
事もあろうに看護の実習で
患者様のベッドに柵をつけ忘れてしまう事が
しょっちゅうだった。

その度に看護教諭達は口を揃えて
「あなたは普通の人とは違う。
看護師にはなれない。
他の道を探しなさい。」
と言った。

しかし、看護師を諦めるという事は
周りの大人を
これ以上失望させてしまう事になると
必死に努力した。

高校生の頃は自傷行為には及ばなかった。

努力しても結果が出ず、
高校3年生の冬
ネットで見つけたある精神疾患
自分に該当するのではと
精神科を生まれて初めて受診した。

私の読みは当たっていて
そこで不注意優勢型注意欠如多動症(ADD)
と診断された。

開始された。

通常、発達障害の診断を受けた者は
今まで上手く行かなかった事は
全て病気のせいだったんだ、と
開放感にも似た感情を抱くと言うが、
私は違ったらしい。

〝私は障害持ちのダメな奴。
もう看護師にはなれない。
皆を失望させてしまう。
存在する価値はない〟

そんな負の感情が渦巻いて
気づいたら今度は右腕を
数箇所カッターで切っていた。



春が来て上の学年に上がり、
正看護師の過程になった時、
私は2週間ほどハイになっていた。

自分は何でもできる、
そうだ、今度ギターを買ってライヴをしよう
ここを卒業したら大学へ行って医者になろう
という誇大妄想

多弁で
同級生や先生、他学年の生徒に話しかけまくり
講義中は講師の話を遮って質問攻め

2週間でバイトで貯めた7万円を使い切り

夜は眠るのが勿体ないと
不眠で何かしていたが
次々と考えが頭に湧き出る為
何も手につかなかった。

それが精神看護の講義で教わった
躁状態と気づいた時は
全身脱力して何もやる気が起きない
鬱の状態になっていた。

そして、ADDと診断された時に
自分の中で渦巻いていた負の感情も蘇り、
希死念慮となって私の精神と身体を蝕んだ。

左腕、時に右腕への自傷行為は習慣化し、
無能なせいで皆から見捨てられる自分を
罰してやった。



初夏頃に通院時、同伴している母としか
話さない主治医に
自傷行為や自分の情緒の不安定さを
相談できないことに嫌気がさして
転院した。

転移先は小さなクリニックだったが
そこの院長兼主治医は思春期・青年期の
心の問題のスペシャリストだった。

新しい主治医に自傷行為や情緒が不安定で
見捨てられる不安が強く
些細な事で死にたくなったり
易怒的ですぐに大暴れしたり
他人をすぐにをこき下ろす事などを話した。

そして新たに双極性障害
という病名が加わって
薬物療法が始まった。

幾らか気分はマシになったが、
情緒の不安定さと希死念慮は消えなかった。

クラスメイトに私がアームカットして
精神科に通っている事がバレていた。

ずっと長袖であったが
きっと体育で着替える時に
傷が見えたのだろう。

この時、
クラスに情緒不安定な生徒がもう一人いた。

何でも彼女は父親が自殺してしまったらしい。

皆、彼女に同情した。

彼女は教室で大声で泣いては
皆に慰められていた。

一方、私はと言うと、
虐待されていただなんて、
ADDだなんて誰にも話せずに
泣きたい時はトイレに篭って独りで泣いて
時にトイレに剃刀を持ち込んでは
腕を切っていた。

脂肪が見える位に切った時は
止血が大変で
講義を欠課する事もあった。

自分の命の無価値と
無能な自分が見捨てられる恐怖と
教室で大声で泣いては
皆に慰められているあの子への羨望とで
希死念慮は増大し、
私は処方された薬を飲まずに
溜めるようになった。

そして遂にある日、
私は処方された薬を100錠余り飲んで
病院に救急搬送され、
胃洗浄を受けて帰された。

自傷行為も両親の知る所となり、
精神的に追い詰められた私に
両親は決して優しくしてはくれなかった。

父は私にこう言い放った。

うつ病なんて外で汗水垂らして
必死で働いてる人間がなるもんだ。
お前のはただの甘えだ、ふざけるな。」

母は私を自殺未遂をした私を
「折角五体満足に産んでやったのに
こんな事して」
とただただ責めた。

しかし、私は孤立無援ではなかった。

当時、私には毎日話をする
友人がいた。

彼女達はある日、
私を学校近くの公園へ呼び出し
改まった様子で
「その腕、どうしたの?」
と聞いた。

そんなことを聞かれたのは初めてで、
私は何を話していいか分からなかった。

沈黙する私に、彼女達は
「自殺はダメよ」
と言った。

私は初めて誰かに心配してもらって、
その場で泣いてしまいそうなくらい
嬉しかった。



夏、私はある病院へ実習に行った。

そこで、私は運命を決める出逢いをする。

その時の私は相変わらず歯止めの効かない
自傷と戦っていた。

しかし、1回の自殺未遂を経て
希死念慮は幾らかマシになっていた。

そんな私はそこの病院で
消化器癌のオペ後で精神疾患を持っている
一人の女性を受け持たせて貰った。

最初、過干渉に関わっていた私は
彼女に拒絶されてしまった。

そこで、もし自分が精神的に辛い時、
どう関わって欲しいか
どんな言葉をかけて欲しいか
それ常に考えて彼女と接するようにした。

そうすると、
彼女の言葉にどう返したらいいか、
どのタイミングで彼女のベッドサイドへ
足を運べばいいか何故か分かった。

最初は強ばった表情で
私を拒絶した彼女の表情は
次第に綻び、
笑顔が見られるようになった。

実習最終日、
私は彼女に感謝を伝える為
ベッドサイドへ向かった。

私が彼女に感謝の気持ちを伝えると、
彼女は私にこう言った。

「あんたに出会えて良かったよ。
出来るならまた会いたいね。
あんたなら絶対いい看護師さんになれる
頑張ってね。」

この時、私の心に芽生えていた感情が
花開いた。

〝病気の私だから出来ることがあるんだ
私にしかできない看護をしよう
精神科の看護師になろう〟

それから私は看護師になる為に
必死に与えられた課題をこなした。

自傷の頻度は減り、
希死念慮もうっすらとしたものになった。



翌年の冬、実習を終えて
私達は国家試験の勉強に明け暮れた。

その頃、
父親を自死で亡くしたクラスメイトに
毛嫌いされ何故か敵視されていた。

理由は全く分からなかった。

クラスメイトは皆、
可哀想な彼女の味方だった。

「自殺はだめよ」と諭してくれた友人も
敵に回った。

彼女は事もあろうに私が今まで相談した事を
噂としてクラスに流した。

そして私を「害児、メンヘラ」と呼んだ。

辛くて机に伏せていると、
「クラスの士気を下げる、迷惑だ」
となじられた。

私はここまで来て
5年間苦楽を共にしたクラスメイトに
いじめのターゲットにされた。

希死念慮がまた色濃くなり、
今度は腕ではなく
頸動脈に近い首筋を剃刀で傷つけた。

学校へは行けなくなった。

行っても殆どの時間、
保健室にいた。

そんな状況でも自殺を既遂しなかったのは
精神科の看護師になって
患者さんのために
私にしか出来ないことをしたい
という信念があったからだ。

結局、国家試験が終わってからは
卒業まで学校へ行かず、
卒業式もその後の謝恩会も行かなかった。

いじめに加担しなかった
2人のクラスメイトを除いて
その他のクラスメイト達とは絶縁した。

因みに、
小・中学校でもいじめを受けていた為、
成人式にも行ってない。

無様な人生だ。



4月になって
私は精神病院の看護師として
働き始めた。

厳しくも優しい上司と先輩方の下、
患者さんへより良い看護を提供するために
日々努力を重ねている。

この1年、
精神疾患と戦って生き抜いた人達の
たくさんの死を目の当たりにして
自分が死のうと思っていたことが
バカな事だと思った。

病気の自分にしか出来ない看護がある。

その信念を胸に
白衣を着て
私は今日も鍵のかかる重い扉の向こうへ行く。

患者さんに
〝今日は昨日よりマシな日だ〟
とと思ってもらえるように。