深淵から見えた

白衣の堕天使。精神科→外科。

メンヘラと知って逃げ出したんだ


精神科で働くメンヘラとして
精神医療に対する啓発をしようと
立ち上げたブログなのに
完全に自分語り用の自己満足ブログに
成り下がってしまいました。

そこで、
今日は私の恋愛について語らせて下さい。

私が完全に
境界性人格障害を発症したのは
初めて恋人が出来た時でした。

別に彼自身が好きだったわけではなく
彼からの好意が好きで
付き合っていたという最低な女です。

彼にはメンヘラだという事を
打ち明けていました。

そしたら事あるごとに
「お前病気だからそんな風なんだろ」
と冷たく言われ
我慢できずに2年半で別れました。

3番目の恋人は
私の裏垢を勝手に見て
メンヘラと知りました。

「黙れよ精神障害者
と言われ、叩く、
髪を引っ張って引きずるなどDVを受け、
「やっぱり障害者とは付き合えない」
と浮気されて別れました。

4番目の恋人は
3番目の恋人に深く傷つけられ
援でもしよかなと思った矢先
婚活サイトで出会い、
「結婚するつもりで付き合って」
と言われ
一晩だけの関係のつもりが
気づけば半年。

同棲の話も出て来ました。

なぜそこまで続いたのか。

それは、
彼にはまだ私がメンヘラだと
打ち明けてないからです。

メンヘラだということは
もう誰にも打ち明けないと
決めているんです。

しかし、
Twitterの佐々木じゃないアカウントで
私の恋人と同じ職業の恋人がいて
精神疾患を打ち明けているけど
上手く行っている人を見つけました。

その人に
結婚を考えてるなら
打ち明けるべき
と言われました。

私も同棲するなら
打ち明けるべきなんだろうか。

恋人は私を親兄弟友達に
よく会わせてくれます。

それは、私を恥ずかしいと思ってないから
だと思います。

左腕の自傷跡は隠していますが
右腕の自傷跡は薄いから隠してません。

何か気づいているはず…。

それでも打ち明けなければならないのか。

メンヘラだろうと
健常者だろうと
私は私なのに
わざわざ嫌われるリスクを冒して
打ち明ける必要性があるのか。

そんな事を悩む日々です。

皆さんなら
同棲する恋人にメンヘラだと
カムアウトしますか?

僕が死のうと思ったのは

こうして眠れない夜は看護学校の
吹き曝しの廊下に出て
柵にもたれて
地面を見下ろしていた日々を思い出す。

地面には茶色い土、小石、
それから視界の隅に
アオギリの木があって
その木漏れ日が揺れていた。
今でもあの景色は鮮明に思い出せる。

「ここから落ちたら
死んでしまうだろうか」
いや、
「ここから落ちてしまえたら
死ねるだろうか」
そんな事しか考えられなかった。



幼い頃の夢は看護師になる事だった。
物心つく前から何故か
〝自分は役に立たない人間だ〟
という事を自覚していた
だから役に立つ人間になりたくて
看護師になりたいと思うようになった。

「看護師になりたい」
そう言えば周りの大人を
喜ばせることが出来た。

いつしか私の頭の中で
思い描く将来の姿から
看護師以外の選択肢が消えていた。

今思えば、
看護師にならなければ
周りの大人達を失望させてしまう
と思っていたのかも知れない。



父はサラリーマン、
母は専業主婦、
そして私と弟が2人という
ごく一般的な家庭に私は生まれた。

ただ、夫婦喧嘩が絶えない家庭で
事あるごとに父は酒を飲んでは
母や子供達に暴力を振るい、
人格を否定する言葉を吐いた。

特には母への暴力は酷いもので
しばしば流血沙汰となる事もあった。

そんな母は精神的に追い詰められ、
毎日のように
ベランダから飛び降りようとしたり
包丁で手首を切ったり自殺しようとした。
それを止めるのが長女である私の務めだった。

そんなある日、父と母が
いつものように夫婦喧嘩をしていて、
母が耐えきれず家を出て行こうとした。

私は母を追いかけて
「出ていっても私のお母さんだよね?
ちゃんと会ってくれるよね?」
と泣きながら言った。

すると母は冷たく
「どうして捨てた子なんかに
会わなくちゃいけないの?」
と言った。

そして私は
「そんなの無責任だよ!
産んだならちゃんと育ててよ!」
と言い放った。

母は歩みを止めて、
気が変わったのか家に帰って来てくれた。

私はこの一言が後に
自分と母を苦しめる事になるとは知る由もなく
ただ母が帰って来てくれた事を喜んだ。



私の交友関係は今も昔も変わらず
破滅的な物だった。

幼稚園から社会人になるまで
ずっといじめのターゲットであり続けた。

当然だ。

私は所謂、多動児で問題児だった。

いつも授業中に教室を抜け出しては
グラウンドや動物小屋を探検した。

同級生に詰られては
いつも取っ組み合いの喧嘩をした。

だからいつも母は学校の先生や
他の子供の父兄から
苦情を受けては謝っていた。



そんな私に転機が訪れた。

父の仕事の都合で小学5年生の時に
九州から今住んでいる県の学校に転校した。

私はそこでも変わり者で、
他所者だった事も相まって
ひどくいじめを受けた。

掃除当番はいつも1人、
完全に同級生からは無視され、
バイ菌扱いされ、
私の給食が用意されることはなかった。

それと合わせ、
父の母への配偶者間暴力も
この頃より更に激化した。

父から暴力を受ける度、
母は私にこう言った。

「お前があの時無責任だなんて言うから
私はお前の父親から叩かれる。
全部お前のせいだ。
お前なんか居なきゃいい。
産むんじゃなかった。」

次第に母は私を拒絶し、
無視するようになった。

私の食事は用意されず、
衣服も洗濯される事はなかった。

傍目にはまだ幼い末の弟を
愛しそうに抱く母の姿が写った。

私は母にネグレクトされた。

学校では私の筆箱とその中身が
トイレの便器に浮かんでいた。

私は頭の上からホースで水をかけられ
ずぶ濡れで上履きを隠されたから
裸足でただ呆然とそれを見ていた。

私はこの時、
完全に孤立無援だった。

気づいたらカッターで手首を切っていた。



中学校は小学校の頃の延長で、
小学生の時程ではないが
いじめのターゲットだった。

時々いじめられっ子に
「大丈夫?」
と声をかけるだけで
何もアクションを起こさない
偽善的な女の子にイラついただけで、
後は部活で部員全員から無視されていたけど
高校の推薦が貰えなくなるから
辞められなかった位だ。

中学に上がる頃には
相変わらず父の母へのDVは続き、
母との間に溝はあったが
ネグレクトはされていなかった。

時々リストカットをしては
憂さ晴らしをしていた。



高校は衛生看護科のある高校へ入った。

高校生の私はピエロを演じた。

もういじめられるのはたくさんだ
と思ったからだ。

幸い、高校3年間
同級生からの
いじめのターゲットになることは
避けられた。

しかし、変わり者の私は今度は
先生達の〝特別指導〟の対象となった。

多動児ではなくなっていたが、
この頃には注意力の散漫さが目立ち、
うっかりレポートを提出し忘れたり
事もあろうに看護の実習で
患者様のベッドに柵をつけ忘れてしまう事が
しょっちゅうだった。

その度に看護教諭達は口を揃えて
「あなたは普通の人とは違う。
看護師にはなれない。
他の道を探しなさい。」
と言った。

しかし、看護師を諦めるという事は
周りの大人を
これ以上失望させてしまう事になると
必死に努力した。

高校生の頃は自傷行為には及ばなかった。

努力しても結果が出ず、
高校3年生の冬
ネットで見つけたある精神疾患
自分に該当するのではと
精神科を生まれて初めて受診した。

私の読みは当たっていて
そこで不注意優勢型注意欠如多動症(ADD)
と診断された。

開始された。

通常、発達障害の診断を受けた者は
今まで上手く行かなかった事は
全て病気のせいだったんだ、と
開放感にも似た感情を抱くと言うが、
私は違ったらしい。

〝私は障害持ちのダメな奴。
もう看護師にはなれない。
皆を失望させてしまう。
存在する価値はない〟

そんな負の感情が渦巻いて
気づいたら今度は右腕を
数箇所カッターで切っていた。



春が来て上の学年に上がり、
正看護師の過程になった時、
私は2週間ほどハイになっていた。

自分は何でもできる、
そうだ、今度ギターを買ってライヴをしよう
ここを卒業したら大学へ行って医者になろう
という誇大妄想

多弁で
同級生や先生、他学年の生徒に話しかけまくり
講義中は講師の話を遮って質問攻め

2週間でバイトで貯めた7万円を使い切り

夜は眠るのが勿体ないと
不眠で何かしていたが
次々と考えが頭に湧き出る為
何も手につかなかった。

それが精神看護の講義で教わった
躁状態と気づいた時は
全身脱力して何もやる気が起きない
鬱の状態になっていた。

そして、ADDと診断された時に
自分の中で渦巻いていた負の感情も蘇り、
希死念慮となって私の精神と身体を蝕んだ。

左腕、時に右腕への自傷行為は習慣化し、
無能なせいで皆から見捨てられる自分を
罰してやった。



初夏頃に通院時、同伴している母としか
話さない主治医に
自傷行為や自分の情緒の不安定さを
相談できないことに嫌気がさして
転院した。

転移先は小さなクリニックだったが
そこの院長兼主治医は思春期・青年期の
心の問題のスペシャリストだった。

新しい主治医に自傷行為や情緒が不安定で
見捨てられる不安が強く
些細な事で死にたくなったり
易怒的ですぐに大暴れしたり
他人をすぐにをこき下ろす事などを話した。

そして新たに双極性障害
という病名が加わって
薬物療法が始まった。

幾らか気分はマシになったが、
情緒の不安定さと希死念慮は消えなかった。

クラスメイトに私がアームカットして
精神科に通っている事がバレていた。

ずっと長袖であったが
きっと体育で着替える時に
傷が見えたのだろう。

この時、
クラスに情緒不安定な生徒がもう一人いた。

何でも彼女は父親が自殺してしまったらしい。

皆、彼女に同情した。

彼女は教室で大声で泣いては
皆に慰められていた。

一方、私はと言うと、
虐待されていただなんて、
ADDだなんて誰にも話せずに
泣きたい時はトイレに篭って独りで泣いて
時にトイレに剃刀を持ち込んでは
腕を切っていた。

脂肪が見える位に切った時は
止血が大変で
講義を欠課する事もあった。

自分の命の無価値と
無能な自分が見捨てられる恐怖と
教室で大声で泣いては
皆に慰められているあの子への羨望とで
希死念慮は増大し、
私は処方された薬を飲まずに
溜めるようになった。

そして遂にある日、
私は処方された薬を100錠余り飲んで
病院に救急搬送され、
胃洗浄を受けて帰された。

自傷行為も両親の知る所となり、
精神的に追い詰められた私に
両親は決して優しくしてはくれなかった。

父は私にこう言い放った。

うつ病なんて外で汗水垂らして
必死で働いてる人間がなるもんだ。
お前のはただの甘えだ、ふざけるな。」

母は私を自殺未遂をした私を
「折角五体満足に産んでやったのに
こんな事して」
とただただ責めた。

しかし、私は孤立無援ではなかった。

当時、私には毎日話をする
友人がいた。

彼女達はある日、
私を学校近くの公園へ呼び出し
改まった様子で
「その腕、どうしたの?」
と聞いた。

そんなことを聞かれたのは初めてで、
私は何を話していいか分からなかった。

沈黙する私に、彼女達は
「自殺はダメよ」
と言った。

私は初めて誰かに心配してもらって、
その場で泣いてしまいそうなくらい
嬉しかった。



夏、私はある病院へ実習に行った。

そこで、私は運命を決める出逢いをする。

その時の私は相変わらず歯止めの効かない
自傷と戦っていた。

しかし、1回の自殺未遂を経て
希死念慮は幾らかマシになっていた。

そんな私はそこの病院で
消化器癌のオペ後で精神疾患を持っている
一人の女性を受け持たせて貰った。

最初、過干渉に関わっていた私は
彼女に拒絶されてしまった。

そこで、もし自分が精神的に辛い時、
どう関わって欲しいか
どんな言葉をかけて欲しいか
それ常に考えて彼女と接するようにした。

そうすると、
彼女の言葉にどう返したらいいか、
どのタイミングで彼女のベッドサイドへ
足を運べばいいか何故か分かった。

最初は強ばった表情で
私を拒絶した彼女の表情は
次第に綻び、
笑顔が見られるようになった。

実習最終日、
私は彼女に感謝を伝える為
ベッドサイドへ向かった。

私が彼女に感謝の気持ちを伝えると、
彼女は私にこう言った。

「あんたに出会えて良かったよ。
出来るならまた会いたいね。
あんたなら絶対いい看護師さんになれる
頑張ってね。」

この時、私の心に芽生えていた感情が
花開いた。

〝病気の私だから出来ることがあるんだ
私にしかできない看護をしよう
精神科の看護師になろう〟

それから私は看護師になる為に
必死に与えられた課題をこなした。

自傷の頻度は減り、
希死念慮もうっすらとしたものになった。



翌年の冬、実習を終えて
私達は国家試験の勉強に明け暮れた。

その頃、
父親を自死で亡くしたクラスメイトに
毛嫌いされ何故か敵視されていた。

理由は全く分からなかった。

クラスメイトは皆、
可哀想な彼女の味方だった。

「自殺はだめよ」と諭してくれた友人も
敵に回った。

彼女は事もあろうに私が今まで相談した事を
噂としてクラスに流した。

そして私を「害児、メンヘラ」と呼んだ。

辛くて机に伏せていると、
「クラスの士気を下げる、迷惑だ」
となじられた。

私はここまで来て
5年間苦楽を共にしたクラスメイトに
いじめのターゲットにされた。

希死念慮がまた色濃くなり、
今度は腕ではなく
頸動脈に近い首筋を剃刀で傷つけた。

学校へは行けなくなった。

行っても殆どの時間、
保健室にいた。

そんな状況でも自殺を既遂しなかったのは
精神科の看護師になって
患者さんのために
私にしか出来ないことをしたい
という信念があったからだ。

結局、国家試験が終わってからは
卒業まで学校へ行かず、
卒業式もその後の謝恩会も行かなかった。

いじめに加担しなかった
2人のクラスメイトを除いて
その他のクラスメイト達とは絶縁した。

因みに、
小・中学校でもいじめを受けていた為、
成人式にも行ってない。

無様な人生だ。



4月になって
私は精神病院の看護師として
働き始めた。

厳しくも優しい上司と先輩方の下、
患者さんへより良い看護を提供するために
日々努力を重ねている。

この1年、
精神疾患と戦って生き抜いた人達の
たくさんの死を目の当たりにして
自分が死のうと思っていたことが
バカな事だと思った。

病気の自分にしか出来ない看護がある。

その信念を胸に
白衣を着て
私は今日も鍵のかかる重い扉の向こうへ行く。

患者さんに
〝今日は昨日よりマシな日だ〟
とと思ってもらえるように。



戦え


久しぶりです
残暑厳しい頃になりました。

皆様どうお過ごしでしょうか。

私はもう何年かしたら
思春期の精神医療に特化した病院に
転職しようなんて考えています。

だから、思春期に多い精神疾患について
勉強するために
たくさん本を読まねばなりません。

今日も図書館でBPDについての
本を読みあさっていました。

たくさん事例が乗っていて
病態や治療的な関わり方
とても為になる本だったのですが
読んでいる途中で幼い頃の事が
フラッシュバックして
とても辛い気持ちになりました。

こんなじゃ実際の患者さんを前にした時
自分も同調して患者になりかねない

私は自分のトラウマと戦って
勝たなければ
誰も助けることができない

そう思い知った1日でした。

治らなきゃ理想的に生きられない気持ちと
どういう状態を治るというのか分からない
治ったら誰からも見てもらえなくなる
そんな不安が入り混じります。

生きること、死ぬこと、食べること


最近、精神状態がおもわしくない。

仕事中も、死ぬことと食べ物の事で
頭がいっぱい。

精神科でナースとして働いてる癖に
患者さんより強い薬を使ってる。

私が看護師である価値があるのか。

そんな事を考えると
涙が溢れる。

食べ物をうけつけない。

食べたいけど食べてはいけない。

少し食べては吐き出す。

役立たずの憎い自分の
左腕を傷つけてしまう。

喜怒哀楽が激しくて
自分で自分に疲れる。

どうにかしなきゃ。

どうにかしなきゃ
私は看護師でいる事ができない。

こんな看護師に看護されたくない。

しかし看護師でない自分は
何の価値があるのか。

こんなに苦しい思いをして
果たして私は看護師でありたいのか。

しかし私は看護師でなくなれば
ただの精神障害者になってしまう。

ああ、どうしたいのか。

どうすればいいのか。

普通に生きてゆくことすら
とても難しく
苦しい事だ。

ヘンペルのカラス



黒くなければカラスでない。
白くなければ…



九州の方は梅雨入りし、
蒸し暑い季節となりました。

入職して2ヶ月、そろそろ注射以外の事は
徐々に覚えてきた頃です。

そんな私はこの蒸し暑い中、
まだまだ白衣の上に黒のカーディガンを
着て勤務しています。

理由は2つあり、
クーラーの風がダメなのと、
腕に人には見せられない傷跡があるからです

その旨、直属の上司に伝え
了承を得ていたつもりだったのですが

今日もっと上の上司から呼び止められ
「カーディガンを脱ぎなさい」
と言われました。

「そんなこと誰も気にする余裕はないから。
誰かが何か言うと思うのは
自分中心に考えてるからよ。
成長したらそんなことない。」

社会に出たらそうなのかも知れませんが
学生時代、私がこの傷跡のせいで
腫れ物扱いどころか
クラスという社会から
つまはじきにされていた経験があるので
とてもそう思えないのです。

患者さんの中にも、
腕に自分で作った傷跡がある方は
たくさんいます。

しかし、そのどれにも負けないくらいの
醜い傷跡が私にはあるんです。

そんなものを、
今まで私が健常者だと思っていた
まだ知り合って間もない赤の他人に
どう受け入れてもらえと言うのでしょうか。

親からもらうべき無償の愛を
赤の他人からむしり取ろうとした
代償がこれです。

自業自得です。

ついには社会の外へつまはじきにされて
野垂れ死ぬのがお似合いです。


深淵の向こうから


何もしなかったら蒸し暑いけど
クーラーをつけたら寒い
そんな季節になりました。

「馬鹿は風邪をひかない」
よくそんなことを言いますが
馬鹿な私は体調管理ができずに風邪をひいて
三連休をもらいました。

この連休で、ふと考えてみたんです。

入院している精神病の患者さんにとって、精神病を持ちながらも働いているスタッフはどう見えるだろう。

「あの人が働けているのなら、
自分にもできるかな」
そうポジティブに考える人もいれば

「あの人は
自分と同じような病気を持っていても
働いているのに、
自分はなんてダメなんだ。」
と、焦りを覚える人もいるんじゃないかと
思います。

自分も精神病だから
患者さんの気持ちを考えて
看護ができるんじゃないか

そんな思いも、
単なるエゴだった様に思えます。

中途半端な自分に怒りを覚えます。

私は健常者にはなれなければ
障害者にもなれない。

私はどう生きればいいのでしょう。

告白


上司に精神科通いの事と
リスカの事をカミングアウトしました。

この先お風呂介助もあるので
隠しきれないと思ったからです。

カミングアウトと言っても
今は何もないって事を
全面にアピールして話しました。

そんな事はないんですが。

上司は優しく
「看護師にもいろいろあるし
みんなそれぞれ何か抱えてるから
大丈夫」
と言ってくれました。

上司はそう言ってくれたのですが
他のスタッフがこの腕を見たら
どう言うでしょうか。

ともあれあとは上司次第です。

胸にそっとしまっておくもよし、
お酒の席でネタにするのもよし。